【丹波市】2020大河ドラマ「麒麟がくる」特集 -明智光秀・赤井直正-

赤井(荻野)直正

織田信長の精鋭部隊である明智光秀軍を破ったことから、戦国の勇将として称えられる赤井(萩野)直正。丹波国氷上郡を中心に勢力を誇った赤井氏の出身である。叔父である萩野秋清を宴の席上で刺殺。そのまま、黒井城を乗っ取った。通称の「悪右衛門」は、この事件がきっかけともいわれる。

1557年(弘治3)、兄・赤井家清が丹波派遣を争った香良合戦での傷がもとで死去。まだ幼い甥の忠家が赤井氏を継ぐと、その後見人として赤井一族を実質的に主導した。武勇に優れ、丹波国一の実力者であった内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取るなど、隣国にもその名を轟かせ、「丹波の赤鬼」として恐れられた。地元では直正の武勇と遺徳を偲び、毎年秋に「黒井城まつり」が催されている。

【直正ゆかりの地】

黒井城下館跡(興禅寺)

黒井城跡の登山口にある興禅寺は下館跡で、平時、城主はふもとの館で政務を行った。水をたたえた七間濠、高石垣と白い練り塀を巡らせ、堅固な防御施設を備えている。丹波攻めの後、光秀の重臣・斎藤利三が城主となり、娘のお福(春日局)がここで生まれ、3歳まで育ったとされる。

兵主(ひょうず)神社

兵庫の守護神として鎮祭され、全国にある兵主神社の丹波国の一社。戦国時代からは特に疱瘡の守り神として有名。神社には萩野一族が寄進下と伝わる愛用の兜が奉納されている。

明智光秀

戦国時代、織田信長の重臣として活躍した明智光秀。日本史上最大のミステリーとされる「本能寺の変」を起こすなど、その半生は謎に包まれた人物として知られる。逆臣のイメージがつきまとうが、領地では善政をしいたとされ、京都府の亀岡市や福知山市など、今でも光秀を慕う地域が多い。信長家臣団の中では、教養豊かな知識人で知将と評され、当時の織田軍団で最も鉄砲の運用に長けていたともいわれる。

黒井城攻めで1度は赤井直正に破れた秀吉だったが、2度目の丹波攻めでは一気に黒井城を攻めずに、周りの城から落としていく作戦を取った。さらに、二大勢力であった赤井氏と波多野氏を分断するため、中間地点にある郡境に金山城を築城。相手の戦意を奪う作戦で智略を駆使し、苦難の末に丹波を平定した。信長に「日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と、その戦功を激賞された。その後、突如として信長に反旗を翻し、「本能寺の変」を起こすことになった。

【光秀ゆかりの地】

光秀が丹波攻めの際、黒井城の赤井氏と八上城の波多野氏の連携を分断するために築かれた山城で、本丸には石垣が一部残っている。頂上には大空に横たわる巨岩「鬼の架橋」がある。

柏原八幡神社

京都石清水八幡宮の別宮として創建され、丹波攻めの際に消失。秀吉の本陣が置かれた。天正3年に羽紫秀吉の命によって、家臣の堀尾吉晴が現在の社殿を再建。今は「柏原の厄神さん」で親しまれている。

黒井城の戦い

丹波の赤鬼 織田信長との決戦へ

1570年(元亀元)、赤井(荻野)直正は一族の甥・忠家とともに京にいた織田信長に拝謁し、織田方に味方することを約束。氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部市)三郡の所領を安堵された。

しかし、1571年に隣国の但馬から山名氏が攻め込み、直正はこれを撃退。さらに反撃に転じて勢いに乗った直正は、「天空の城」として有名な竹田城を占拠した。山名氏は信長に救援を依頼し、1575年(天正3年)、信長は明智光秀に丹波平定を命令。明智軍の動きを察知した直正は黒井城にこもり、戦闘態勢を整えた。戦国最強を誇る信長の精鋭部隊との対決に直正は踏み切ったのである。

赤井の呼び込み戦法

丹波攻めの総大将を命じられた明智光秀は、赤井氏と並んで二大勢力を誇った八上城主の波多野秀治を取り込み、着々と直正包囲網を形成していった。そうして、丹波の豪族たちの大半を味方につけた光秀は、満を持して、大軍により黒井城を包囲した。当初は「すぐに落城するだろう」と書かれた光秀の書状も残り、赤井軍が圧倒的に不利な立場であったとされる。

しかし、ろう城が2ヵ月以上経とうとした頃、波多野秀治が突如、反旗をひるがえして、明智軍を急襲。赤井、波多野軍に三方から攻めたてられた明智軍は大敗し、光秀は命からがら居城である近江坂本城に逃げ帰ったとされる。これは直正の作戦ともいわれ、後に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれる。明智軍を破った直正は、その勇猛果敢な戦いぶりから「丹波の赤鬼」として武名を轟かせたのである。

1557年(天正5)、信長は再度、光秀に丹波攻めを命令。翌年、武勇を誇った直正が病死すると、求心力を失った丹波の諸将は次々に討伐される。光秀は前回の失敗を踏まえ、今回は一気に黒井城を攻めようとはせず、周りの城から攻略。1579年、孤立した黒井城はついに落城の憂き目に合った。その後、丹波国は光秀が統治するが、直正の武名は後世に語られ、丹波の名将として今に伝えられている。

黒井城空撮

黒井城まつり

黒井城について詳しくはこちら

【直正・光秀ゆかりの人々】

黒井城下で過ごした春日局と斎藤利三

斎藤利三

NHK大河ドラマのヒロインにもなった春日局は、1579年(天正7)に黒井城下に生まれたとされる。父親である斎藤利三は、明智光秀の重臣として活躍した戦国武将である。光秀の丹波平定後、黒井城を与えられて城主となった。利三は山城のふもとにある下館(興禅寺)を陣屋として妻子を呼び寄せ、西丹波を統括した。この頃、幼名をお福といった春日局が誕生し、3歳まで黒井城下で過ごしたとされる。その後、徳川二代将軍・秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に任命され、大奥の基礎を築いたのであった。

春日局(お福)

直正と共に明智軍を破った 波多野秀治

波多野秀治

丹波の名族・波多野氏最後の当主である秀治は、八上城を居城として、丹波に勢力を誇った。始めは織田信長に従い、秀吉軍に加わったが、黒井城攻めに際して、突如反旗をひるがえし、光秀の軍勢を打ち破った。その後、体制を整えた光秀軍の数度に及ぶ猛攻に耐えたといわれている。1579年(天正7)、ついに落城し、安土城に送られて処刑。その際、秀治の助命を保証するため、光秀の母が人質となったが、信長の約束違反によって殺されてしまうという悲話が伝承として残る。しかし、真偽の程は定かでない。

【ドラマを彩るゆかりの人々】

悲劇のヒロイン 細川ガラシャ

細川ガラシャ(明智玉)

悲劇のヒロインとして知られる細川ガラシャ。明智光秀の娘・玉として生まれ、父の盟友である細川幽斎の嫡男、忠興に嫁いだ。玉の運命を変えた大事件が本能寺の変。「逆臣の娘」とされ、京丹後市味土野の山中に幽閉されることになった。その後、豊臣秀吉の取りなしもあり、許された玉だったが、監視下に置かれる日々だったという。

そんな玉の心を癒したのが、キリスト教との出会い。ガラシャという洗礼名を授かるが、さらなる悲劇が彼女にふりかかる。関ヶ原の戦いで東軍についた細川家に対し、西軍方は大坂屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとする。しかし、忠興の教えを守って人質を拒絶したガラシャは、キリスト教の洗礼を受けていたため自害はせず、家臣に胸を貫かせて壮絶な最期を遂げたという。

戦国の猛将「細川忠興」光秀の盟友「細川幽斎

細川忠興

明智光秀の盟友で、親戚でもあった細川幽斎・忠興親子。ともに有能な武将であり、教養の高い文化人としても知られる。光秀の助力もあって丹後南部を平定し、宮津城主となる。本能寺の変では光秀の協力要請を断り、信長の死に追悼の意を示して中立の立場をとった。その後、豊臣秀吉、徳川家康に重用され、現在も続く肥後細川家の礎を築いた。

細川幽斎

「麒麟がくる」ゆかりの地 一覧

丹波市大河ドラマパンフレット

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